2016年3月31日木曜日

もう私は「ワーファリン派」であると言うことを止めます

 国内の非弁膜症性心房細動患者のRegistryであるJ-Rhythm registryの新規抗凝固薬(NOAC)登場後の結果が今年の循環器学会で発表されました。学会には行けませんでしたが早速 Circulation Journalに論文化されていたので目を通しました。
Circ J 2016; 80: 843-851

結論は明白です。抗凝固薬を内服していない患者やワーファリンで抗凝固療法を実施している患者群と比べてNOACで抗凝固療法を行っている群では有意に血栓塞栓症・大出血・総死亡・心血管死を減らしていました。

またワーファリンで抗凝固している群では抗凝固療法を受けていない群と比較して総死亡・心血管氏を減らしているものの血栓塞栓症の減少は有意ではなく、大出血を増やしていました。

数年前から「ワーファリン派の私が考えるNOACの適正使用」というタイトルで多くの場所で講演させていただきましたが、もうワーファリン派であると言えない、言ってはいけないと結論しました。NOACが使える方にはNOACを使うべきだと断言します。

とはいえ、こうした結論に至ることは実はNOAC発売当初から予想していました。そしてNOACの普及に役立とうとするときに、ワーファリンの否定から論を展開して受け入れられるだろうかと考えていました。長く信じていたものを「悪」と否定されて新たな提案を受けても受け入れづらいものです。ですからワーファリンの果たしてきた役割を評価した上で更によい成績を目指そうという話が受け入れやすいのではないかと考えていたのです。そんな論調で良ければとメーカーとも打ち合わせをして作り上げたのが「ワーファリン派の私が考えるNOACの適正使用」という話でした。

しかし、もうワーファリンとの比較でNOACを語る段階は終わったと感じます。2016年3月10日付当ブログ「治験の目的は治療なんかじゃない」に書いたようにNOACのより良い使い方を考える段階に入ったと思っています。そしてそのテーマで考える一つの課題は抗血小板剤との併用です。上段の図に示したようにNOACであっても抗血小板剤の併用は危険です。早くにより良い使用法を確立したいものです。


2016年3月14日月曜日

手が語るもの、失った指が奏でるもの

 私の生業である冠動脈のカテーテル治療ですが、もちろん「手」を使ってする仕事です。しかし、手の器用・不器用よりも大事なことは頭で考えることです。患者さんの状態の把握、冠動脈の評価、治療の要否、治療の戦略の構築、使用する道具の特性の理解、合併症発生時に慌てないためのシミュレーション等、頭で行う作業があって治療は成功に導かれます。ただ頭が重要だといっても「手」がどうでも良いわけではありません。カテーテル治療の分野にはそんなに「手」の動きに象徴的なものはありませんが、上手な手術医の「手」の動きをみると、その「手」から十分に準備された自信や、経験が垣間見えます。「手」から伝わるものが存在します。

上段の図は「ゴースト ニューヨークの幻」のコインの場面です。ゴーストとなったサムの存在を信じられないモリーがサムが動かす1セントコインを見て存在を確信します。印象に残る「手」のシーンでした。

「手」のことをこんな風に考えたのは音楽座ミュージカル「泣かないで」を昨日3月13日に観てきたからです。誤診でハンセン病の病院に行くことになった「森田ミツ」が、誤診と分かった後も病院で働き続ける物語です。遠藤周作の「私が・棄てた・女」が原作です。

私は学生時代に岡山のハンセン病療養所 長島愛生園を訪ねたことがあります。治療の必要ない入園者は長屋のような居宅を持っておられ、そこで生活されていました。40年近く前です。「らい予防法」が廃止されるまでまだ20年が残されていました。自治会の役員の方のお住まいに泊めて頂き夕食を共にしました。夕食の副菜は覚えていませんが、アサリの味噌汁とご飯はよく覚えています。夕食用にと一緒に潮干狩りのように海岸でアサリを採ったのです。ハンセン病では指の感覚障害のために痛みを感じないことが多く気づかないままにおった外傷が原因で指が無くなってゆくことがあります。この自治会の方もそうでした。最初、お会いした時にはげんこつを握っているのかと思ったのですがよく見ると指が無くなりげんこつのようになっていたのです。その指のない手で熊手を使わずにアサリを採られるのでもっと傷つくと心配したものです。また、げんこつのような手で米をとぎ夕食とされました。翌日 帰る時に、「医者になってもまた来いよ」と声をかけてくださいました。感染することはまずないと当時も考えられていましたが、やはり感染を恐れて訪ねてきてくれたり夕食を共にする人は少ないのだと言っておられました。ことさらに指のない「手」を見せつけ、この「手」で作った飯を食えるのかと試されていたのだろうと感じました。言葉ではなく「手」で語っていたのです。

「泣かないで」には元ピアニストであった「森田ミツ」の同室者が登場します。包帯をはずし、ない筈の指を伸ばしピアノを奏でます。ない筈の指に何が込められているのでしょう。希望に満ちた過去でしょうか、失った未来でしょうか、舞台を見守る人一人一人がその指を観て何かを感じる大事なシーンです。私はこのシーンで長島愛生園でのアサリとご飯を思い出していました。

「医者になってもまた来いよ」と言われて40年近くが経過しました。まだ再訪していないことに後ろめたさを感じます。その頃の役員さんが生きているはずもありませんがやはり心に残ります。ただ鹿屋にもハンセン病の療養所 星塚敬愛園があります。演劇を通じて患者と医師との新たな関係を作れないかとお付き合いの始まった「音楽座ミュージカル」です。存在しない指が語る物語を、失った指が奏でる音楽を鹿屋で伝えられないかと妄想が止まりません。

2016年3月10日木曜日

治験の目的は治療なんかじゃない

大きな病院のスタッフとして働いていた頃にはほとんどTVドラマなど視なかったのですが最近は、少なからず視ています。図はフジテレビの「フラジャイル」です。病院に勤務する病理医が主人公です。

日本の医師、約30万人に対して病理医は2000人余りしかいません。術中迅速診断や、病理解剖を十分に行うには少なすぎる人数です。事実かどうか不明ですが、病理学会で病理医を主人公にした「月9」ドラマを作れば人気が出て病理医が増えるのではないかと議論があったそうです。しかし、地味な病理医を主役にした「月9」などとても無理だろうという結論になったそうです。病理学会でこんな議論をする筈もないので、酒の席での話でしょうか?

3/9の放送では武井咲が演ずる宮崎先生の幼なじみががん患者として登場しました。有効な治療法がない中で、治験薬を使って治療を受けたいという話です。長瀬智也演ずる岸先生は、宮崎先生に「治験の目的は治療なんかじゃない」と言います。

その通りです。

治験の目的は新たに開発された薬剤が安全で、なおかつ有効かを調べることです。この目的のために治験のプロトコールが作成されます。決して、最も有効な使い方を調べるという目的ではありません。

当ブログで、最も多くの記事を書いている新規抗凝固薬ですが、その用法・容量はほぼ治験時のプロトコールのままです。例えばダビガトランですが、1日150㎎の使用は治験時には調べられていないので、この用量での処方は用法・用量違反ということになります。この処方で脳梗塞が発生した場合、医師の責任が問われるという講演の演者もいます。しかし、2013年6月14日付当ブログ「プラザキサ 75㎎x2capで得られた十分な効果」に記載したように高齢の低体重の女性ではこの量の処方の方が安全な患者が間違いなく存在します。
アピキサバンの減量基準(年齢80歳以上、体重60㎏未満、クレアチニン15.㎎/dl以上のうち2つを満たす場合には減量する)もこの基準が最も安全だというエビデンスは存在しません。ただ治験の時にこのプロトコールを採用したというだけです。リバーロキサバンのクレアチニンクリアランスだけで減量するか否かを決めるのも同様です。オフラベルとされるエドキサバンの1日 15㎎の処方も高齢の低体重の女性では良い選択になるだろうとも考えます。治験にエントリーする時にはこの基準を守らないのは不適切ですが、実際の診療でも不適切なのかどうかは検証されていません。何故なら治験の目的は「患者を治療することではない」からです。

各薬剤の市販後調査ではこのため治験通りの減量基準ではなく、高齢者や低体重の患者には用法・用量よりも少ない量の処方が約30%行われていると言われています。患者を治療することを目的にする医師が考えた結果です。

最も早く市販されたダビガトランは市販後5年が経過しました。プロトコールを作成し、実際の患者エントリーを行い。経過を見て、審査を経て市販されて5年です。プロトコールはいつ作成されたのでしょうか?10年前でしょうか。そんな古い「治療を目的としない基準」に縛られて最善の効果を得ることはできるのでしょうか。講演で用法用量を守れというだけではなく、最善の投与法を提案することが、医師や学会の務めではないのかと思います。

ドラマの中で岸先生は「治験の目的は治療なんかじゃない」と言い放ちます。岸先生はこのドラマの中でいくつかのきめゼリフを使いますが、その中の一つを「治療を目的にしたわけではない基準」を守れという実際の先生方に贈りたいと思います。「あんたは、バカなのか!」