2012年5月30日水曜日

心房細動患者に対する新規抗凝固薬に思う

2012年4月22日付の当ブログ「心房細動患者に対するワーファリンのアドヒアランス」に記載したように、循環器診療において心房細動患者の占める割合は少なくありません。当院の外来患者数の約20%は心房細動患者です。私はこの記事にも書いたようにワーファリンによる抗凝固療法で困った記憶がほぼないので、新しい抗凝固療法が可能になっても基本的にワーファリン派です。しかし、だからと言って新しい薬の勉強をしなくても良いとは思っていません。図は新しく使用可能になったイグザレルト(リバロキサバン)の適正使用のためにバイエル薬品が配布している腎機能をチェックしてくださいという案内です。

当院に通院されている心房細動患者の平均年齢は73歳です。この73歳で考えてみます。73歳の女性で、体重45㎏、CRE: 0.8mg/dlの方がおられるとします。この図のCockcroft-Gault計算式によるクレアチニンクリアランスは44ml/minになります。イグザレルト(リバロキサバン)であってもプラザキサ(ダビガトラン)であってもクレアチニンクリアランスが30-49ml/minの方は慎重投与ですからイグザレルトであれば1日10mg、プラザキサであれば1日110mgを2回の内服ということになります。Cockcroft-Gault計算式によるクレアチニンクリアランスの算出には性別、体重、年齢の要素が入っているので低体重では容量を減らすだとか、高齢では減らすという考え方をせずに算出されたクレアチニンクリアランスで高齢者でも低体重者でも過剰投与を防げるということになります。しかし、この考え方に間違いはなくても、このやり方は危なっかしいと私は思います。


73歳の女性でCRE: 0.8の方を外来で見て腎機能が不良な高齢者だから少ない投与量で始めなければならないとすぐにピンとくるでしょうか。慎重な先生であればこのあたりも把握して控えめな処方をされるでしょうがCRE: 0.8であれば問題ないと考えて通常量を処方する医師は出てこないでしょうか。私は間違いを少なくするためには判断の過程が簡単であるほうが良いと思っています。70歳以上の女性であればイグザレルトは1日10㎎という風に決めた方が安全ではないでしょうか。プラザキサであれば110mgを1日2回となるでしょうか。


最近知ったのですが、2010年10月19日付のFDAのダビガトランに対する承認容量はクレアチニンクリアランス30ml以上で150mgを1日2回投与と、クレアチニンクリアランスが15-30mlの方で75㎎の1日2回投与の2容量だけです。日本の認可の容量である110㎎の1日2回投与ではないのです。Re-lyで検討されていない75mgの2回投与は認可され、Re-lyで検討された110mgの1日2回投与はFDAでは認可されなかったのです。また、75㎎の1日2回投与は欧州でも一般的に処方される容量であるとACCF/AHA/HRS重点改正には記載されています。


日本のPMDAがいい加減で常にFDAが正しいとは言いませんが、検討されていない容量をFDAが認可するためには十分な議論があったはずです。一方で平均体重80㎏で検討された容量をそのまま日本人の容量として認可してしまうPMDAの姿勢には疑問を持たざるを得ません。


日本人向けの容量設定がなされたイグザレルトではこうした問題は発生しないかもしれませんがより単純でエラーを起こさないことを意識した容量設定がなされ、新薬による悲劇が起きないことを祈るばかりです。

2012年5月29日火曜日

Net上の書き捨てられる言葉と生き続ける言葉

ブログの更新が1月以上も滞りました。このまま6/1から始まる小倉ライブに出かけると5月のブログは1件もないままになるので、書いています。

この間、落ち込んでいた訳でも、忙しかったわけでもありませんでした。私は、ネットがあるから地方でも開業が可能であったと何回も書いてきました。ネットの信者です。しかし、少し、Facebook疲れというか、Net疲れというか、ふと考えて立ち止まっていたのです。ネット上で交わされる言葉の寿命はFacebook上であればせいぜい1日です。Twitterであれば数時間のことさえあります。一方、古いメディアである書物では、読み応えのある小説などの寿命は数十年も数百年もあります。

全ての言葉は日本語であれば50音で、英語であれば26文字で表現可能です。この僅かな文字の組み合わせで、愛情を語ったり、感動を生んだりが可能です。一方、同じ文字を使って表現されるネット上の言葉の中には、匿名性に隠れた誹謗中傷など、書く人自身すら幸せにしないものもあります。幸いなことにこうした言葉の寿命は短命です。しかし、同じ脳細胞を持ち、同じ文字を使いながらその能力をネットという舞台で浪費させている文化が果たして幸せなのだろうかとふと思った瞬間にキーボードを打つ手が止まったのです。他者が書く、ネット上のくだらない文章と思った瞬間に私が書く言葉はくだらなくはないのかと思ったのです。

1月間、キーボードを止めていて考えたこと、寿命も長く素晴らしい表現もその周辺のくだらない表現の中にあるからこそ光り輝くのではないかということです。匿名性に隠れ、ネット上で書き捨てられる誰も幸せにしない言葉を私自身が浪費したいとは思いませんが、私の言葉に価値があるのだろうかとなどと肩肘張らずに真面目にやはり書き続けようと思います。1月の更新の停滞の間に、数か月前に書いた記事を読んでくれた方が少なからずいらっしゃいます。FacebookやTwitterとは異なる寿命の長い言葉がブログにはあるようです。

ネットを信じるものとして、ネットを傷つけるものがいるからとネットを否定せず、ネットの価値を高めるべく私の微力を尽くしましょう。