2012年5月29日火曜日

Net上の書き捨てられる言葉と生き続ける言葉

ブログの更新が1月以上も滞りました。このまま6/1から始まる小倉ライブに出かけると5月のブログは1件もないままになるので、書いています。

この間、落ち込んでいた訳でも、忙しかったわけでもありませんでした。私は、ネットがあるから地方でも開業が可能であったと何回も書いてきました。ネットの信者です。しかし、少し、Facebook疲れというか、Net疲れというか、ふと考えて立ち止まっていたのです。ネット上で交わされる言葉の寿命はFacebook上であればせいぜい1日です。Twitterであれば数時間のことさえあります。一方、古いメディアである書物では、読み応えのある小説などの寿命は数十年も数百年もあります。

全ての言葉は日本語であれば50音で、英語であれば26文字で表現可能です。この僅かな文字の組み合わせで、愛情を語ったり、感動を生んだりが可能です。一方、同じ文字を使って表現されるネット上の言葉の中には、匿名性に隠れた誹謗中傷など、書く人自身すら幸せにしないものもあります。幸いなことにこうした言葉の寿命は短命です。しかし、同じ脳細胞を持ち、同じ文字を使いながらその能力をネットという舞台で浪費させている文化が果たして幸せなのだろうかとふと思った瞬間にキーボードを打つ手が止まったのです。他者が書く、ネット上のくだらない文章と思った瞬間に私が書く言葉はくだらなくはないのかと思ったのです。

1月間、キーボードを止めていて考えたこと、寿命も長く素晴らしい表現もその周辺のくだらない表現の中にあるからこそ光り輝くのではないかということです。匿名性に隠れ、ネット上で書き捨てられる誰も幸せにしない言葉を私自身が浪費したいとは思いませんが、私の言葉に価値があるのだろうかとなどと肩肘張らずに真面目にやはり書き続けようと思います。1月の更新の停滞の間に、数か月前に書いた記事を読んでくれた方が少なからずいらっしゃいます。FacebookやTwitterとは異なる寿命の長い言葉がブログにはあるようです。

ネットを信じるものとして、ネットを傷つけるものがいるからとネットを否定せず、ネットの価値を高めるべく私の微力を尽くしましょう。

2 件のコメント:

  1. 私は、インデアンやアイヌのような先住民族が言葉は持っていたにもかかわらず、文字を持たなかったこと。イエスや仏陀も文章を残さなかったこと。そういったことから文字(あるいは文章)の限界を感じています。

    幸せに生きるために必要なことは、思いを正確に伝えることではなく、感情を伝えていくことなのかななんて思っています。

    現在は昔から比べれば、語彙が増えましたがそれだけでは伝わらないものがあるように思います。

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  2. ご無沙汰してます。先生がブログを更新されていないので心配しておりました。
    整形外科の病棟ですが心機能の悪い方や術後にVTが頻発される片が多くいらっしゃるため私も小倉ライブに行って何か情報が得られればと思い行こうと思ってます。
    小倉でお会いできるのを楽しみにしております。

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