2013年5月15日水曜日

小さな局所である鹿屋で見かける事象は普遍化できないでしょうが、この土地で感じる日本最大の製薬メーカーに対する危惧

 屈託のない笑顔等とよく表現しますが、最近は屈託があるという表現をあまり聞かなくなりました。心に抱えた悩みなど、屈託を抱えた人の表情を見ると何かしてあげなければと思ってしまいます。

 6年半前、2006年に鹿屋ハートセンターはオープンしました。循環器の専門施設ですから少なくない患者さんが高血圧を基礎に持っているために多くの降圧剤を処方しています。なかでもARBの処方量は少なくありません。日本で発売されている7種類のARBのどれがどのように優れているのかという点は、色々とデータを示されても正直、どれを選択すべきかという根拠をあまり持っていません。2種類のARBの直接の比較試験などあまりないからです。このARBを発売している日本最大の製薬メーカーは開院以来、鹿屋ハートセンターに全く来られていませんでした。しかし、数年前に若いMRが初めて来院されました。就職して初めての赴任地が大隅だったそうです。色々と話していて、色々な配属の考え方はあっても期待される新人がこんな僻地といってもおかしくない土地の配属にはならないだろうから、君はきっとあまり期待されない新人なんだよな等と話していると、本人にも自覚があったらしく良い成績を上げてスタートでの躓きを覆したいのだと話し始めました。彼には期待されていないという屈託があったのです。こうした屈託を抱えた人を見ると放っておけないたちなので、では、ARBや最近よくあるARBと他剤との合剤や糖尿病患者に処方するDPP-4阻害剤なども、なるべく使ってあげようと話をしました。薬効ではなくこんなことで処方薬を決めるのもいかがなものかという気持ちもありましたが、大差ない同種薬であればよいかというような考えです。

 それ以後、その日本最大のメーカーの製品を中心に処方してきましたが、屈託のある期待されていない新人MRはその後、1度も当院に来られませんでした。その後、そのメーカーのARBやDPP-4阻害剤を処方することはなくなり、今では他の製薬メーカーのARBばかり処方しています。そしてその新たに使い始めたARBの製薬メーカーの当院担当MRさんは、売り上げの伸び率が日本で1位だか2位になったとのことで本社表彰を受けられました。

 言うまでもなく日本最大の製薬メーカーは武田薬品工業です。安倍政権が誕生する前の2012年10月1日の株価は3575円でしたが、その後のアベノミクスの期待もあり2013年4月25日には5520円の高値を付けました。1.5倍を超える上昇です。しかし、2013年5月9日に発表された決算の内容は実績営業利益が前期比54%減と惨憺たるものでした。その後、株価は最高値より10%以上下落しました。

 ジェネリック医薬品の使用を促す国策等もあり先発品メーカーの将来は決して明るくはないものと思われますが、本当にこの最大製薬メーカーの苦戦は国策によるものだけなのでしょうか。いつかブログに書いたように日本の営業マンの営業力がこのままで良いのかと心配しています。営業力のないメーカーが淘汰されても構わないのですが、その怠慢が故に国力まで低下し、この国の経済の発展までも阻害しないかと心配しています。あんなMRしかいないような会社の業績が良い筈がないと田舎で思っていましたが予想通りでした。また、新しいARBを上市し挽回を期すそうですが、そんな営業にもやはり来られていません。

 アベノミクスによる現在の株価の上昇や景況感の向上は、現状では見かけだけだと思っています。スローガンや金融緩和だけで経済は再生するはずもありません。より良い製品を作り上げる能力と、それを販売する営業力の奮起を期待していますし、この国の実態のある再生を願っています。

2013年5月3日金曜日

朝日新聞阪神支局襲撃事件から26年が経過しました

 1987年5月3日、私は当時勤務していた関西労災病院の重症治療部で当直中でした。26年前です。

 重症治療部は院内の重症患者を引き受けるだけではなく、地域の三次救急を担っていました。外科や脳外科などからスタッフが出向し構成されていた重症治療部では内科系の出向者は循環器の私だけでした。この部署での勤務が決まった1984年当時、銃創などが来ても内科系の私では何もできないので当直は不安だと上司に申し出ましたが、止血の基本は圧迫止血だから圧迫している間に外科医が駆けつけるので心配ないと言われました。

 少し遅めの夕食を摂っていたところ、救急隊から腹を撃たれた銃創の患者の受け入れ要請を受けました。もちろん要請を受け入れ、外科医にも連絡を取り、救急外来で出会ったのが当時29歳の朝日の記者でした。朝日の記者が銃創患者と聞かされていなかった私は、きっと暴力団関係だろうと気合を入れて救急外来で待っていたので、優しい顔でネクタイをした姿を見て拍子抜けしました。私がそれまで出会った新聞記者の多くが感じの悪い人だったので、撃たれた彼の人の良さそうな感じは印象的でした。何で撃たれたのかと尋ねたところ、自分でも訳が分からないとしっかりと返事をされました。来院時には意識があり受け答えができたのです。

 採血をし、ルートを確保し終わる頃には、祝日とは思えない迅速さで外科医が集結しました。腹部の創は散弾で撃たれたにもかかわらず10㎝程の直径のものが一つでした。すぐに手術室に搬送されましたが散弾は腹の中で散っていたそうで大動脈が傷つき助けようがなかったと聞きました。

 毎年5月3日が来るとあの日を思い出します。救急外来に、処置中にもかかわらず制止を振り切って乱入し、俺たちが仇をとってやる等と叫んで処置を邪魔した同僚の朝日の記者を見て、左寄りなどと言われていても、こうした状況では冷静なジャーナリストではないのだなぁ等と思ったのも思い出されます。仇をうってやると叫んだ彼も、兵庫県警も、その後私のところに最後の彼はどうでしたかと聞きに来ることはありませんでした。

  あれから26年が経ち、日本の社会は、言論を銃で脅かしたり権力で抑えたりする社会ではなくなったのでしょうか?私にとって5月3日は忘れられない、忘れてはいけないと思う重要な1日です。