Friday, May 3, 2013

朝日新聞阪神支局襲撃事件から26年が経過しました

 1987年5月3日、私は当時勤務していた関西労災病院の重症治療部で当直中でした。26年前です。

 重症治療部は院内の重症患者を引き受けるだけではなく、地域の三次救急を担っていました。外科や脳外科などからスタッフが出向し構成されていた重症治療部では内科系の出向者は循環器の私だけでした。この部署での勤務が決まった1984年当時、銃創などが来ても内科系の私では何もできないので当直は不安だと上司に申し出ましたが、止血の基本は圧迫止血だから圧迫している間に外科医が駆けつけるので心配ないと言われました。

 少し遅めの夕食を摂っていたところ、救急隊から腹を撃たれた銃創の患者の受け入れ要請を受けました。もちろん要請を受け入れ、外科医にも連絡を取り、救急外来で出会ったのが当時29歳の朝日の記者でした。朝日の記者が銃創患者と聞かされていなかった私は、きっと暴力団関係だろうと気合を入れて救急外来で待っていたので、優しい顔でネクタイをした姿を見て拍子抜けしました。私がそれまで出会った新聞記者の多くが感じの悪い人だったので、撃たれた彼の人の良さそうな感じは印象的でした。何で撃たれたのかと尋ねたところ、自分でも訳が分からないとしっかりと返事をされました。来院時には意識があり受け答えができたのです。

 採血をし、ルートを確保し終わる頃には、祝日とは思えない迅速さで外科医が集結しました。腹部の創は散弾で撃たれたにもかかわらず10㎝程の直径のものが一つでした。すぐに手術室に搬送されましたが散弾は腹の中で散っていたそうで大動脈が傷つき助けようがなかったと聞きました。

 毎年5月3日が来るとあの日を思い出します。救急外来に、処置中にもかかわらず制止を振り切って乱入し、俺たちが仇をとってやる等と叫んで処置を邪魔した同僚の朝日の記者を見て、左寄りなどと言われていても、こうした状況では冷静なジャーナリストではないのだなぁ等と思ったのも思い出されます。仇をうってやると叫んだ彼も、兵庫県警も、その後私のところに最後の彼はどうでしたかと聞きに来ることはありませんでした。

  あれから26年が経ち、日本の社会は、言論を銃で脅かしたり権力で抑えたりする社会ではなくなったのでしょうか?私にとって5月3日は忘れられない、忘れてはいけないと思う重要な1日です。

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