患者さんと医師との関係で最も医師が非難される形は、患者さんが苦痛を訴えたのに取り合わなかったというものです。患者さんが胸苦しいと訴えているにもかかわらず、必要な検査や処置あるいは転院といった対策をとらないままにその患者さんが心臓発作で亡くなったような場合、当然のように亡くなった患者さんのご家族からあんなに苦しいと言っていたのに取り合ってくれなかった、医師に見殺しにされたと非難されます。このようなケースで民事上の訴訟が提起された場合、多くの場合、医師の責任は認められ、民事上の責を負うことになります。最近では、刑事上の責を求めて業務上過失致死で逮捕・起訴されることもあり得ます。こうした医師に刑事上の責任を求めるという点の可否は置いておくにしても、必要な処置を実施しなかったという不作為に責任は付いて回ります。話は聞いていたが取り合わなかったという不作為は、医師であれば道義的な責任ではなく、民事的な場合によっては刑事的な責任です。
子供が興味本位で喫煙を始めた時、多くの場合、その喫煙を親や教師から隠そうとすると思います。この時、喫煙に気付いた親や教師が「ほどほどにしておけよ」と言った場合や、その行為を笑って見ていた場合、未成年者の喫煙を止めろと注意したことにはなりません。許可を与えたのと同じです。「ほどほどにしておけよ」と言われた子供は、こう言われた後、隠そうともせずに堂々と喫煙をするようになると思います。
自殺した男子が相談しても、同級生からの通報を受けても、取り合わなかった不作為や、いじめの行為を目撃しても笑って見ながら「ほどほどにしておけよ」と許可を与えた教師の責任は重大です。一方の男子は命を絶ち取り返しがつきません。暴行・強要・恐喝を視野に入れた加害生徒への捜査の結果がどうなるかはわかりませんが、最も重い場合には少年院送致や保護観察処分が課せられるものと思われます。少年院送致や保護観察処分は刑事処分ではなく更正処置だとしても、一般には、彼らを罰する処置だと認識されるものと思います。教師の不作為や笑って許可を与えた行為が、加害生徒の行為をエスカレートさせ、自殺した生徒の命を奪い、加害生徒の人生を狂わせます。教師の不作為や笑って許可を与える行為が被害生徒・加害生徒両者に害をなしているという点で2重に大きな責任があったように私には思えます。
今回、報道されている「葬式ごっこ」で思い出されるのは、1986年に起きた中野富士見中学における中学生の自殺です。富士見中学で行われた葬式ごっこでは4人もの教師が寄せ書きに書き込みを残しました。教師の不作為、いじめ行為の許可、寄せ書きに記載するという積極的な加担の結果、富士見中の生徒は「このままだと生き地獄だよ」と書いた遺書を残して自殺しました。生き地獄の中で具体的な行為を行っていた鬼は加害生徒ですが、生き地獄というシステムを作り維持していたのは教師のように思えます。加害生徒が罰せられ、生き地獄のシステムを構築していた教師の責任が問われないとしたらいかにもフェアではないと感じます。
医療の世界にも教育の世界にも当然のようにろくでもない、その責にふさわしくない医師や教師が存在します。その責にふさわしくない医師や教師から、患者さんや生徒を守るシステムが不可欠です。それが医師会や教育委員会であれば良いのですが、今回の事件の報道を見る限り、教育委員会や校長が守っているものは生徒ではなく教師のようです。
大阪市の橋下徹市長が、教育委員会制度そのものが問題だと発言されたと聞いています。私も、根源はそこにあるような気がします。ろくでもない医師に出会った患者さんは病院を替えることが可能です。義務教育期間中にろくでもない教師に出会った生徒には替えるべき学校はありません。ろくでもない教師の責任はろくでもない医師の責任よりもはるかに重大です。逃げることができない義務教育制度の中で教師によって作り上げられる生き地獄を解消するための努力が関係者だけではなく、すべての人に求められていると考えます。
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