2020年3月15日日曜日

きれいな言葉で装われた社会の本心を新型コロナが表出させる

一昨日2020.3.13には循環器学会で京都にいるはずでした。しかし新型コロナウィルスの騒動のために学会は延期され、急な空白ができました。ゆっくりすればよいのに生来の貧乏性ゆえでしょうか? 何かしなければと考え、日帰りで九州大学病院を訪問しました。残薬チェックの先達である先生に相談に伺ったのです。

感染のリスクを減らすために自動車での往復です。もちろん自動車内ではマスクなんかしません。しかし、九大病院に到着後にはマスクを付けました。感染が怖かったからではありません。マスクをせずに病院を訪ねると白い目で見られるのではないかと思ったからです。そんな風に考えた自分の気持ちを振り返って鹿屋ハートセンターに来られる方のことを考えると、感染予防というより付けてこないと居心地が悪いからという理由でつけてくる方も少なくないのではないかと思い始めました。実際、鼻を出していたりすき間だらけだったりで予防の役に立たないだろうという方も少なくありません。

マスクを着けていない人が暴行を受ける映像を見ると感染よりも人の目を恐れてマスクをつける人も少なくないと思います。日本国内でもマスクをせずに咳をした人が電車内で口論になったりというニュースも目にします。

ちょうど9年前に発生した東日本大震災時に盛んに「絆」という言葉が使われました。日本中、世界中の人が力を合わせて復興に取り組もうとか、「被災者」を非被災者が助けるのだという意味だったのかと思いますが、おなじ人間が他者と同じふるまいをしないとまずいのではないかと考えるのを不思議に思います。他者の視線を恐れ、他者と同化しないことを恐れる感情です。大地真央さんに「そこに『絆』はあるんか?」と聞いてもらいたい気持ちです。非被災者が余裕をもって被災者に「絆」というのは決して醜いとは思いません。しかし、自分も感染するリスクを負ったときに他者と同化しないとまずいと考える心情は「絆」とは対極にある気がします。他者と力を合わせようという気持ちと他者の目を恐れる気持ちの同居です。被災者も非被災者も、日本人も外国人も同じ人間だから助け合うのだというコミュニティで、生きていくためには同化しないと生きづらいのであればそのコミュニティの「絆」は何か嘘くさいと感じてしまいます。「絆」と言っていた、モラルや民度が高いといわれた日本の社会はトイレットペーパーを買い占めたり、マスクを分かち合うのではなく高額で転売するような社会でした。

「自由」「平等」「友愛」を憲法にも載せるフランスで「コロナは出ていけ」という落書きが中国人の経営する日本食レストランになされました。街を歩いていてもアジア人は「コロナめ」と罵声を浴びせられることもあると聞きます。「自由」「平等」「友愛」を憲法にも載せるフランスは、「自由」「平等」「友愛」の先進国ではありませんでした。「自由」「平等」「友愛」と言い続けなければ、憲法に書かなければ、「自由」「平等」「友愛」が保てない国だったと思います。おまえはRacist人種差別主義者だという表現は人を非難する言葉です。これもRacistを非難することで自分の心の中の人種差別を否定して安寧を図っているだけかもしれません。

新型コロナの騒動で、自分を含めて誰もがリスクを負う局面に立った時、心の奥に隠していた・気づかなかった感情が表に出てきました。新型コロナは感染していない人の心までも、あらわにするウィルスのようです。医学的な公衆衛生的な解決をいつか得て「人間」は「科学的」に成長すると思います。これだけではなく、この騒動を機にきれいにな言葉で繕ってきた他者の視線を恐れる心情や他者を蔑む感情などにも気がつき成長すればよいと思います。嘘できれいに装った「良い」社会よりも本音で築き上げられた社会がより良い社会であればと願わずにはおれません。

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