Friday, September 9, 2011

若き志士たる医師の活躍 友人の誕生日に贈る言葉として

Facebookの友人が今日、44歳の誕生日を迎えました。おめでとうのメッセージを送ったところ、44歳の頃、何をしていたのですかと返事をもらって考えました。

私が湘南鎌倉病院を退職し、福岡徳洲会病院の部長になったのは39歳の時です。大学からの派遣の部長とは異なり、自分のポジションを保証するものは自分の力量しかない訳ですから、スタッフに受け入れられるまで毎日、胸が締め付けられる思いがして時にニトログリセリンを舌下していました。効果がないことを確認しては狭心症ではなくプレッシャーが原因だからと安心していました。

福岡への転勤を徳洲会病院の徳田虎雄理事長にお願いしたのは、政令指定都市である福岡都市圏で1番のPCI施設を作り上げてやるぞという野心があったからです。転勤した1994年当時、福岡都市圏で最も多くのPCIを実施していたのは福岡大学病院でしたが、わずか年間100件程度でした。転勤した1994年に福岡徳洲会で約250件のPCIがあり、数字的には1年で福岡都市圏で1番の施設になりました。2年目に400件、3年目に500件程度になったように記憶しています。

2010年12月5日付当ブログ「私がブログを始めた訳 ネット時代の医師の生き方」に書いたように、この頃に対馬との出会いがあり、PCIができない土地にもPCIを普及させ、日本のどこで心筋梗塞になっても安心な世の中を目指そうと思い始めました。1997年に対馬と福岡徳洲会をテレビ電話で結んで対馬のPCIをサポートする「遠隔PTCA」を始めました。1998年には、奄美大島にもこのシステムを繋ぎました。また、通信で繋がっているだけで都会から地方をサポートするいう安易なポジションで偉そうにしていてはいけないと考え、自分自身が奄美大島に赴任したのは1999年です。45歳の頃です。2000年には当時PCIができない土地であった鹿児島県大隅半島でもPCIができるようにと現在住んでいる鹿屋に転勤を申し出ました。学会で「ブイブイ」言いたいというスタンスから地方に視点が向いた頃です。

この仕事の中で徳田虎雄さんから可愛がられるようになり、大隅鹿屋病院の院長を経て、徳洲会の専務理事にまで就任するに至りました。大組織での幹部職員としての仕事や、地方でのPCIの立ち上げをやりながらでは学会活動はままなりません。インターベンション医としては「失われた10年」です。しかし、やりがいのある面白い10年でもありました。この経験がなければ、オーナーとして小さいながらも「ハートセンター」を切り盛りできる力は付かなかっただろうとも思っています。

39歳で支えのない部長になり、駆け抜けた10年です。39歳は今となっては少しスタートが早かったかなとも思います。

しかしです。昨日、書いた入野忠芳先生は、大学医局を喧嘩して飛び出したと聞いていますが、決して評価が高くなかった病院で支えもなしに脳卒中診療部を立ち上げ、Stroke等に多くのpaperを残されました。たとえば下記です。

Irino T, Taneda M, Minami T. Positive scans in angiographically proved cases of recanalized cerebral infarction. Stroke. 1975;  6: 132-135

このpaperは、入野先生が33歳の時に書かれているのです。共同著者の種子田先生は脳外科医です。南先生はたしか、大阪大学特殊救急部出身の先生だったと記憶しています。30歳そこそこで大学の支えもなく、オンボロのアンギオ装置と出たばかりのCTやRI装置を用いて、AHAの発行するStrokeに掲載されるような仕事をしておられたのです。今思えば、ペーペーの若僧とも思える30歳代前半の入野先生ががむしゃらに仕事をされ、Strokeに論文を載せ、病院を一流に育てられました。そう思えば、私が部長としてスタートを切った39歳は決して早くはなかったとも思えます。徳田虎雄さんが徳洲会の最初の病院を立ち上げたのも30代でした。

日本のPCIが始まった1982-3年頃、私は29歳位でした。倉敷の光藤先生は6歳上ですから35歳、鎌倉の齋藤先生は5歳上ですから34歳位です。そのくらいの年代で誰もどうやるのかわからないPCIに挑戦していたのです。そう思えば、今の医師の育成システムは、時間がかかりすぎているのかもしれません。また、若い先生たちに勇気がないのかもしれませんし、挑戦を阻む雰囲気があるのかもしれません。

幕末の坂本竜馬のような若い志士は、その頃に途絶えた訳ではありません。私たちの医療の世界にもつい最近まで若い志士が存在しました。きっと今も存在するのでしょう。もう若いとは決して言えない私たち世代は、若い志士の活躍を阻害しないことだけを使命とする方が良いのかもしれません。とはいえ、入野先生が開業後の65歳でLancetに投稿されたように私も何か一仕事をしなければという意欲だけは捨てないつもりです。

1 comment:

  1. 自分にとって非常に意味がある文章です。
    まだまだ自分をみがこうとする気持ちとスタッフを育てる気持ちとのバランスを考えます。
    どういうかたちであれ自分が前向きであることが重要だと思っています。
    最後に失礼かも知れませんが一つだけ先生にお願いがあるとすれば、先人の先生方にいつも思うのは譲ってほしいという気持ちも正直ありますが(笑)、いつまでも前向きな姿をみせていただきたいし壁であってほしいと。それが我々の一番のモチベーションになっていると思います。
    本当に有り難うございました。

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