2012年7月16日月曜日

スティーグ・ラーソンのミレニアムを読んで思う この国のジャーナリズムの責任

するべき仕事があるにもかかわらず、連休に甘えてこの2日間は本を読んでいました。IVUSで高名なH先生が紹介され、それに刺激を受けたK先生がFacebook上で面白かったと投稿されていた「ミレニアム」です。鹿屋の田舎の本屋では「1」しか置いてありませんでした。その中で、主役の一人であるリスベット・サランデルがもう一人の主役であるミカエル・ブルムクヴィストに出会う前に、ミカエル・ブルムクヴィストが書いたとされる「テンプル騎士団」に触れるところがあります。

「スウェーデンの経済ジャーナリストはここ数年で無能な下僕に成り下がっている」、「企業の経営陣や投資家が明らかに事実に反し誤解を招く発言をしても、多くの経済ジャーナリストは少しも異論を唱えようとせず、発言をそのまま伝えて満足している」。「物事を批判的な目で検討し、正確な情報を報道する、というジャーナリストとしての使命を、故意に怠っている」、「かりに大新聞の裁判担当記者が、たとえば殺人事件の公判の報道で。弁護側の情報を入手したり被害者の家族を取材したりして自分なりに何が正当であるかをつかむ努力をまったくせず、検察側の情報だけを真実として示し、何の検討も加えずに記事にした場合、どれほどの抗議が起こるか、裁判報道のルールを、経済ジャーナリズムにも適用すべきだ」などとスウェーデンの経済ジャーナリズムを批判する文章を多くの場面で記載しています。ジャーナリストであった著者のスティーグ・ラーソンは、よほど、経済ジャーナリストのことを軽蔑していたのだと読み取れます。

こうしたこの小説のストーリーに不可欠ではない話の中に、作者の思いが込められているのだと理解しました。こうした、ストーリーと直接関係ないながらも作者が普段問題に思っていることを登場人物に語らせるという手法は海堂尊氏の「チームバチスタの栄光」の中で登場人物に死因究明のためのAutopsy imagingが必要だと語らせる手法にも通じるところがあります。死因を究明する社会が必要だと正面切って政治的に活動しなくても、こうして小説の中で提起することで死因究明は死因究明推進法となって結実しました。

スティーグ・ラーソンが提起した、ジャーナリストとしての使命をスウェーデンの経済ジャーナリストは果たしていないではないかという批判を見て、日本のジャーナリズムはどうなのだろうと思わざるを得ません。裁判報道ではきちんと取材をして検察側の情報のみに依拠していないだろうか、事件報道では警察発表だけを頼りにしてはいないだろうか、政治報道では国会に提出される法案を批判的に検証しているのだろうかなどと思ってしまします。

私は20年前から新聞を取るのを止めています。その当時は、インターネットも普及しておらず、それまでの新聞大好きの生活から、一転、新聞と隔絶された生活でやっていけるのだろうかと大きな不安を持っていました。しかしあまり困らなかったのです。そして新聞を取っていなくてよかったと思う事件が18年前におきました。松本サリン事件における河野義行さんに対する報道です。湯水のように流される情報の流れに乗っていないのですから、「あの人が犯人に決まっている」というような感情を持たずに済んだのです。

スティーグ・ラーソンが今の日本のジャーナリズムを見たとしたら、批判的に情報を収集し報道するという本来のジャーナリズムの使命は日本にあると評価してくれるでしょうか?かつて、癌が見つかっても何か月も待たされるというイギリスの医療の現状に対して、イギリスのマスコミは医療にもっと予算を回すべきだというキャンペーンを行いました。その結果、GDPに占める医療費の割合が日本と同様に最低水準であったイギリスの医療費は増額されました。ジャーナリズムには国を動かす力がある筈です。

バブル崩壊後の失われた10年あるいは20年を憂わずにはおれません。政治の体たらく、コンピューターやテレビに代表される企業の競争力の低下、定まらない社会保障制度の構築、医療崩壊などこの20年にどれほどの価値を日本は失ったのでしょう。その中で第4の権力と言われるマスメディアには責任はないのでしょうか。

7/17の追記です。
海堂尊氏のホームページを拝見したところ、今回の死因救命推進法に対して、Aiが導入されることの意義は認めておられるものの、死因を遺族にも社会にも明らかにしない法案だと批判されています。海堂尊氏の小説で広く認知されたAiがこんなことになっているとは不勉強でした。

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