新しい看護スタッフが入職してくるとします。新卒ではなく他の病院での経験があります。彼あるいは彼女は、過去の経験を前面に出さずに新しい職場に馴染もうと努力をする筈です。慣れてきたある日、「前の病院ではこんなやり方はせずに、違うやり方をしていたのだけれど…」と発言する日がやってきます。こうすると多くの病院で、嫌われてしまいます。「前の病院のやり方が良ければ、前の病院に帰ればいいじゃない」という目線で見られます。こんな光景は数多く見てきました。「前の病院では違うやり方をしていたのだけれど…」という新しい看護スタッフの姿勢は間違っているのでしょうか?
医療の現場や看護の現場は日々、変化していきます。30数年前に医師になった頃、病棟の師長さんは患者さんの褥瘡部位を一生懸命に乾燥させようとして日光浴をしたりドライヤーを使ったりしていました。今、乾燥を求める人はいません。心カテでもかつては肘を切開して動脈にカテーテルを入れるSones法が一定の支持を得ていましたが、もうSones法をする医師はいないと思います。新しい知見や、新しい道具の出現によって過去のやり方は淘汰されます。「適者生存」は、解釈を誤れば危険な概念になりますが、より良い結果を求め続けることを宿命づけられている現場では、新しいより良いものの出現によって過去は100%淘汰されることも珍しくありません。一時代を支配した恐竜が絶滅したように、市場を席巻したCypher stentも絶滅しました。最も優れた道具や概念のみが生き残り、他者が淘汰されるある種の「適者生存」です。より良い結果を求め続ける医療の宿命と、市場の原理がこうした構造を決定します。分野は異なりますが、コダック社の倒産も同じ構造のように思えます。
医療や市場という大きな構造だけではなく、小さな医療機関であってもより良いものを求め続けなければ淘汰という運命を免れ得ません。「前の病院では違うやり方をしていたのだけれど…」という刺激は、ガラパゴス化する可能性のある医療機関を救う健全な遺伝子の交流と考えることが可能です。他の遺伝子が入り込むことができなかったガラパゴスの進化のような独自の進化を医療は求めていません。情報が国内だけではなくグローバルにやり取りされる中で、独自の劣ったやり方が生存し続ける余地は残っていないと思えます。他者から提案されるものが劣っているのだとすれば、その提案は生き残れないでしょう。一方、他者の提案が優れていれば、提案された側は進化を遂げることが可能です。自らの殻に閉じこもらずに他者からの提案を受け入れ、他者との交流を求めなければなりません。
僻地とも言える地方都市で、PCIという命にも関わる医療を提供している私が、その小さな土地でのポジションに胡坐をかきガラパゴス化すること、これこそが地域の皆さんへの最も大きな背信と考えなくてはなりません。このブログを通して、Facebook上での議論を通して、私の提供するPCIの手技への意見を頂くことは、私の進化をもたらす健全な交流です。こうした交流が地域に提供する医療をも進化させます。5年半前にカテーテル治療を提供する医療機関として開業を決意した時、インターネット環境がなければ地方で開業はできないと考えていました。その感触は今も間違っていないように感じます。
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