1994年に私は、湘南鎌倉病院から福岡徳洲会病院に転勤しました。初めての循環器科の部長職です。39歳でした。福岡への転勤を希望したのは福岡に縁があったからではありません。34歳まで関西を出たことがなかった私には、福岡に親戚も友人も一人もいませんでした。政令都市の中で最もPCIの件数が少ない都市だったことが選択した理由です。当時の福岡市の人口120万人と周辺の人口を合わせて都市圏200万人の規模でありながら最もPCI件数の多い病院でも年間のPCI件数は100件に届きませんでした。都市圏すべての症例数を合わせても1000件にもなりませんでした。人口10万人当り数十件の町ですから、現在のの東京都江東区のような状況です。一方で同じ政令指定都市である北九州市は人口が約100万人であるにもかかわらず日本一の症例数を誇る小倉記念病院があり、1病院でPCI件数は2000件を超えていました。
福岡都市圏でPCIの件数が最も多い施設を作るのだと当時は一生懸命でした。地域の住民の皆さん、地域の開業の先生、九州内のPCIの術者の先生方からの信頼を得るのが肝要だと考えていました。
地域の住民皆さんからの信頼を得るために、多くの公民館で医療講演をさせて頂き、少しでも胸が苦しいことがあればすぐに私に連絡してくださいと自分の携帯番号を載せた名刺を配っていました。ライオンズクラブで話をさせて頂いたり、簡保の旅行があると聞けばそこに同行して宴席で話をさせて頂いたりです。このため年間に配る携帯電話番号のついた名刺の数は1万を下りませんでした。
地域の開業の先生からの信頼を得るためには「顔」を繋ぐことが大事ですから、製薬のMRさんに紹介していただいて多くの先生方との会食に臨みました。博多の文化は会食の後に中州に流れるという文化でしたので、連日、色々な先生と中州のクラブを訪ねました。生涯で一度もγ-GTPが上昇したことはないのですが、1994年のみは90位まで上昇しました。それほどに開業の先生との顔つなぎに精を出しました。また、同業の循環器の先生からの信頼を得るために必死で学会発表を繰り返し、また、製薬メーカーの主催する研究会に顔を出すだけではなく必ず発言するように努めました。
こんな努力が実ったのか前年が80件であったPCIは、転勤した初年である1994年に250件、翌年に400件、その翌年に550件と増加し、1年目で福岡都市圏で1番の症例数となりました。
こんな状況の時にPCIができない対馬と出会い、高い急性心筋梗塞の死亡率を何とかせねばという気持ちから、若い先生を対馬に派遣してTV電話でサポートしながらPCIを行う遠隔PTCAなるものを始めました。この時、純粋に対馬の循環器救急を何とかしたいと思って始めたことでしたがほんの少し、下心がありました。当時の福岡都市圏200万人の人口のうち、約1割の20万人が対馬出身ないしそのご家族と言われていたのです。対馬での圧倒的な支持を得ることができれば福岡都市圏の人口の1割の方たちからも支持を得られると思っていたのです。
この意図は概ね当たりました。対馬で急性期の治療を受けた方の慢性期の治療や難しいPCIは福岡で行いましたから、対馬の方、対馬ゆかりの方で福岡のPCI件数は随分と増えたのです。ポッと出の私が始める前、対馬の方の多くは小倉記念病院でPCIを受けておられましたが、相当多くの方が福岡に変わられました。その中でお一人は、どんなにお話しさせていただいても小倉から変わるつもりはないと言われました。理由を聞いたところ、私は携帯番号を教えてくれただけだが、小倉記念病院の延吉先生は自宅の電話番号まで教えてくれた。胸が苦しくて電話をかけたところ、先生は留守だったが、奥様が「それならば記念病院にすぐに行きなさい、私が病院には電話をかけておくから」と言ってくれたというのです。奥様にも世話になったのに交通が便利だからと裏切るわけにはいかないと言われたのです。
この話を聞いた時に、やはり日本一の症例数は何の努力もなしに成し遂げられたわけではないと悟りました。延吉先生の大変な努力の結果、日本一になっておられたのです。私も自宅の電話番号を教えても何も問題はありませんでしたが、当時の私は独身でしたので自宅に電話をされても電話で指示してくれる妻はいなかったのです。私が敵わないと思ったのは、私が独身だったからではもちろんありません。20年以上前からのこうした延吉先生の努力にポッと出が敵うはずがないと思ったのです。
昭和49年に小倉記念病院の循環器部長になられた延吉先生が冠動脈造影検査を始められた頃に、患者さんを紹介してもらおうと現副院長の野坂先生と一緒に日豊線の一駅一駅で降りて一軒一軒、開業の先生を訪ねて回られたというのは有名な話です。延吉先生の努力はそれだけではありませんでした。ご自宅の電話番号まで患者さんに教えておられたのです。
多くの病院が生き残るために、PCIの件数を増やすために、患者さんを集める努力をします。うちの病院のほうがきれいだとか交通の便が良いとか、症例数が多いとか、平均在院日数が短いとかを売りにして自分の病院に来てくれと話して回ります。もちろんこうした努力が無駄だとか卑しいとかとは思いませんが、延吉先生のご努力と比較すると霞んで見えます。
自分の携帯番号を書いた名刺を配ってここまで努力をする医者はいないだろうと思っていた私に、まだまだ甘いと教えてくれたのが延吉先生です。ちょっかいを出そうと思ったポッと出の私には超えようと思っても超えることがができなかった大きな偉大な壁です。そんな経験を経て、今の私の診療のあり様、経営のあり様が完成したと思っています。一番になるのだとぎらぎらと野心一杯であった福岡転勤当時の私の姿はもう今はありません。それを老いたというのか成長したというのかは微妙ですが、私は満足しています。
いつも楽しく拝見させて頂いております。
ReplyDeleteコメントさせて頂くのは2回目です。
将来カテーテル開業を考えている私には、本当に目から鱗が落ちる内容でした。
ちょっと書きにくいこんな内容をブログエントリーにして頂き本当にありがとうございます。
コメントをありがとうございました。カテーテル開業は、今後きびしいと思います。誰の目にも触れるところでは書きにくいのですが、正直、6年前のカテーテル・ステント価格は現状よりも随分と高く、差益で経営を支える部分も少なくありませんでした。今回の改定でも材料価格は低下しており、その分差益も減少するはずです。この記事に書いた程度の努力は当然として、さらに努力が必要かもしれません。
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