2012年2月8日水曜日

現場で働く医師の「孤立無援の思想」

2012年2月1日付当ブログ「ネット時代の連帯を求めて孤立を恐れず」の中で高橋和己の「孤立無援の思想」に言及しました。しかし、内容は全く覚えていなかったのです。「連帯を求めて孤立を恐れず」と頭の中で思い出せば自然と「孤立無援の思想」が出てくるという風で中身のない表現でした。このため改めて読んでみようと思い、新書版をAmazonで購入して読み直しました。

20歳頃の読解力やその内容を受け止める心情は、30年以上が経過して当然のように変化しているはずですが、読み直してみて何故に若い頃の私の心に残ったのかが理解できませんでした。

「これも拒絶し、あれも拒絶し、そのあげくのはてに徒手空拳、孤立無援の自己自身が残るだけにせよ、私はその孤立無援の立場を固執する」という文で孤立無援の思想は締めくくられます。この言葉だけが心に残り、一人でも頑張るぞという意識として残っていたのだと思います。

しかし、読み返してみると、文学者である高橋和己は政治の取るべき立場と異なる立場にいるのだから文学者として政治と同じ土俵には立たないと政治的な人から見れば「逃避」とも取れる立場を宣言しているだけに読み取れます。

『「情勢論」こそ、政治的な思弁が永遠に抜け出すことができない運命なのである』と高橋和己は書きます。実際、人の命は何に対しても優先するという思弁は政治にはなく、国家の利益のためなら人の命をも奪うこともあるわけです。戦争に代表される受容できる人的被害(戦死)で得られる利益が大きいのであれば良しとするのが政治の論理です。一方、国家が受容できるとして死んだ大勢の中の一人であってもそこに思いを馳せるのが文学者の立場だと高橋和己は言います。だからこそ、高橋和己は文学者として政治から離れ孤立を選択するのだと「孤立無援の思想」で言っているように今の私の読解力・心情では読み取れます。勇ましい宣言のように思って30年以上頭に残っていたのはどうも間違っていたのかもしれません。

文学者は、大勢の中の1人の損失として死を捉えないと高橋和己は言います。一方、私たち医師はどうでしょうか。

ある比較研究を行い、Aという治療での死亡率が10%であり、Bという治療法で死亡率が5%であった場合、それが十分なサンプルサイズで統計的に有意であったとするとBという治療法は有効だというエビデンスがあるなどと表現されます。また、5%の死亡はアクセプタブルだと表現されることもあります。この発想は戦争における受容可能な人的損失という考え方とは異なるのでしょうか。

かつて米国の作家マイケル・クライトンは、ハーバードのインターン時代に心筋梗塞患者を受け持たされた時にどうせ心筋梗塞患者は助からないのだから牧師が診ればよいのだと言ったことがあります。この時代にEBMという考え方はありませんでしたが、もし、牧師が診る心筋梗塞のグループと医師が診る心筋梗塞のグループを比較したら、死亡率はマイケル・クライトンの言うように差はなかったかもしれません。すると、医師が診ると死亡率が低下するというエビデンスはないと表現されます。平たく言えば医師が診ることは無駄だということになります。

しかし、現実の心筋梗塞の診療の歴史はCCUの創出によって不整脈が克服され、冠動脈再開通療法によって数%の死亡率にまで治療は改善されました。ある時期の統計を乗り越える不断の努力をした医師の手によって心筋梗塞治療は確実に医師のものになりました。

今あるエビデンスもきっと未来永劫続くものではないはずです。まだ、改善されたとはいえ完全ではない心筋梗塞に対する治療に臨む時、受容可能な死亡率だと言った瞬間に進歩は止まります。「エビデンス」に基づけば無駄だと思われることでも1人1人に向き合うことで今ある「エビデンス」は乗り越えられるに違いありません。

「政治」でもない、「エビデンス」だけでもない立場で1人1人の患者に向き合い「そのあげくのはてに徒手空拳、孤立無援の自己自身が残るだけにせよ、私はその孤立無援の立場を固執する」と言えば、逃避ではない現場で働く医師の「孤立無援の思想」となります。高橋和己を読み直したことは無駄ではありませんでした。

0 件のコメント:

コメントを投稿