1年以上、ブログを書くのをやめていました。NET疲れ、SNS疲れです。別に私が書いたブログが炎上したわけではないのですが、SNSを見ていると疲れるのです。ネットを信じていた私がネットに疲れるのです。
例えば、全国放送が反日製作会社に乗っ取られて偏向報道をしているというフェイクニュース(これを拡散した国会議員が誤りを認めて謝罪した)などがシェアされ、友人がそれにいいね!などしていると見てられないと感じます。SNSで拡散される情報が検証もされずに広まっていくことに恐怖すら感じます。
しかし、2017.10.22投開票の総選挙をみていて考えた事を文章にしてみようと思いました。
テーマはいつまで「議会制民主主義」を制度として維持していくのかです。
古代ギリシャのような直接民主主義は、膨大な人口を抱えるコミュニティーでは無理だというのがコンセンサスでした。だからこそ一部の人に代議してもらうわけです。日本の議会は1890年(明治23年)の第1回帝国議会から始まります。しかし1928年の日本の普通選挙開始までは一部の納税者の代表が参政権を持つにすぎませんでした。またこの当時の普通選挙には女性は含まれません。女性も男性と同様に参政権を得たのは戦後のことです。このように制限された参政権の下での議会はある一部の人たちの代表に過ぎず、その人たちによる立法、予算決定機関にすぎなかったように思えます。議会で決めたことだから民主的な決定だとはとても言えない時代があったわけです。。
では男女の別なく25歳以上で立候補でき、18歳以上であればだれでも投票できる現在の制度で選ばれた国会議員で構成される国会は国民の意見を正しく反映し代議しているのでしょうか?その決定は民主的な決定だから絶対だと現行の制度では言えるのでしょうか?
私が住む鹿屋市は衆議院選挙では鹿児島県4区でした。立候補したのは自民党現職と社民党新人の二人でした。例えば憲法改正には賛成だけれども原発再稼働には反対だという人にとっては選びようがない選択肢です。より多くの共感できる点を選んで投票はしたものの立候補者の主張をすべて支持したわけではない訳ですから、勝利したからといってすべての主張に信任を得たといって欲しくないと思います。こうした不満を抱えた投票を余儀なくされるのは鹿屋だけではない筈です。議会制民主主義あるいは政党政治では議員や政党に限りがある訳ですからすべての政策を是とする政党もすべての政策を否とする政党もほぼ存在しません。この政党の政策全てに賛成だという人やすべてに反対だという人はよほど偏っているのだろうと思います。議会制民主主義が絶対であれば一致点がないことも我慢しなければならないのでしょうか?
少数の国会議員を選ぶのに政党を基準に考えてもすべてを支持することはできません。一方、人物で選ぶといっても候補がどんな人か知る由もありません。まして安保法制に反対だといっていた人が賛成に変えましたといって立候補するようであればそんな人物を支持できる筈もありません。これは「希望の党」に鞍替えした「民進党」の人だけに当てはまるだけではなく自民党所属議員であっても声高にTPP反対だといっていた人が気がつけば賛成だといい始めた等という例はあるので変節は珍しくもありません。政党政治であれば主張も政党の支配のもとに変る訳ですから人物でも選びようがないのです。
安倍一強を倒すために大きな塊を作るのだという話がありましたが何を寝ぼけているのだと感じます。なぜ安倍一強を倒さなければならないのか、憲法違反の安保法制を強行したからでしょうか、憲法改正を意図しているからでしょうか?では安倍一強を倒すための塊を作るためならば憲法改正も安保法制も認めましょうなどといい始めれば、倒す目的すら失った本末転倒と言わざるを得ません。こんなことを言い始めた民進党代表の見識を心底疑います。希望の党の支持が急速に失速したのは、「排除」発言があったからではなく、変節漢を排除せず受け入れたからではないかと思っています。だからこそ主張を変え、党を変えた人が落選したことを当然だと感じ、主張を変えたにもかかわらず当選した希望の党の民進党を離党した創設メンバーに嫌悪感を感じます。
なぜこのように変節してまで当選したいのでしょうか。それは国会議員が選ばれた人だからではないかと思います。選ばれ立法権をもち、予算の決定権という権力を得るからです。私たちは選挙で私たちに代わって議論してくれる人を選んだつもりで権力者を選んでしまっているのではないか、これが議会制民主主義のの最大の問題ではないかと思います。
日本全国から東京に集まるのが困難であった時代、情報を共有するのも困難であった時代、今ほどに教育環境が整っていない時代に作られた現在の制度は50年後も100年後も民意を反映する最善のシステムなのでしょうか?政策ごとに国民が意思表示できるシステムがあってもすべてを委ねるには躊躇われる国会議員に議決を任せてなくてはいけないのでしょうか?
法案もネットで閲覧でき、意見もネットで発信できる時代に、この議会制民主主義や政党政治が最善であり続ける筈がないと思います。国会議員が議論のきっかけを作り、最終的な議決はネットで国民がすればよいのではないかと感じます。おそらく存在するであろう技術的な問題を克服するために何十年も要するはずはありません。ネット時代の直接民主主義を作り上げると決めれば10年以内に技術的な問題は克服でき、実現できるのではないかと思います。また国民投票的なネット投票で議決するようなシステムは衆愚政治に陥るリスクがあるという議論も存在するでしょうが、主張を簡単に変える変節漢に権力を委ねるよりよほどましなように私には思えます。しかしながらネットの発達でおそらく可能になるであろうネット時代の直接民主主義、あるいは多人数の議決権をもった国民による大規模な間接民主主義は、立法権や予算決定権を持つ現在の国会で決定されなければならない訳ですから自らの既得権を失う制度改正を行うはずもありません。ネットのなかった時代に便宜的に始められた議会制民主主義は技術的に可能な時代の直接民主主義を制限する足枷であるように思えてなりません。ネットのなかった時代の遺物たる議会制民主主義に縛られる憂鬱はいつまで続くのでしょう?
#希望の党の失速
#議会制民主主義の問題
#ネット民主主義
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