2011年12月9日金曜日

叶わぬ期待に終わらないように願っています

仕事は忙しい人に頼めと言いますが、私の場合も難題や心配を抱えている時ほど、他の仕事にも打ち込めるように思います。問題が解決し、ホッとすると仕事が手につくように思いがちですが、私の場合、呆けてしまって何も手につかなるように感じます。そんなことで1月近く、このブログの更新も怠っていました。

そんな呆けた状態でネットを彷徨っていると下記のブログに行き当たりました。新党日本の田中康夫氏の2011年12月8日付のブログ「除染はもとより「除洗」も不要だ」です。この中で田中氏は「原発から少なくとも30km圏内は居住禁止区域に設定し、愛着を抱く郷里から離れる当該住民には、国家が新たな住居と職業を提供すべき。それが、「国民の生命と財産を護(まも)る」政治の責務です。」と書いておられます。また、除染に関しては「語弊を恐れず申し上げれば、桜島の噴火が終息していないのに鹿児島市内で愛車を水洗いしている“滑稽さ”と同一です」と書いておられます。

元々は、大阪の生まれ育ちで鹿児島県や鹿屋市には縁がなかった私ですが、11年も住んでいると、「鹿児島市内で愛車を洗車する”滑稽さ”と同一です」と言われると聞き捨てならないと思ってしまいます。私は、毎日洗車するわけではありませんが、鹿児島市内のタクシーも、鹿屋市内のタクシーも明日も灰で汚れると分かっていても、毎日洗車して、きれいな状態でお客さんを迎えています。これは滑稽な姿ではなく、真摯な態度だと思っています。

また、このブログでは「住民が移住後の「フクシマ」を最終処分場とし、この瞬間も世界中で排出される廃棄物を受け入れたなら、これぞ最大最強の安全保障政策の確立です。」と人の住まなくなった「フクシマ」を世界の放射線廃棄物のゴミ捨て場にしろとも言っています。どう考えても福島の方々の心情を考えれば無茶苦茶な論調だと思えます。帰れない故郷を思う人たちを思い浮かべれば、こんなことは言えないはずだ思います。こんな人物が国会議員なのかとも思います。

では、故郷に帰りたい人たちのための「除染」は正しいのでしょうか。私は、放射線が専門ではありません。しかし、被ばくは線源の強さに比例し、線源の距離の二乗に反比例することくらいは知っています。また、ペンキをシンナーで洗い流すように放射性物質は洗い流されるわけではなく、物理的な半減期を経ないと減少しないことも理解できます。現状の「除染」作業は、その場から取り除いて中間施設に保管するだけで国内からあるいは福島から消えてなくなるわけではありません。広範に存在する線源を集中させ、非常に高い線源を作る作業のように思えます。また、12/7から始まった自衛隊による「除染」作業の報道によれば、屋外で毎時2.5マイクロシーベルトが目標だそうです。毎時2.5マイクロシーベルトが24時間・365日続くと2.5X24X365ですから21900マイクロシーベルト即ち21.9ミリシーベルトになります。これでは「除染」をしても批判の多い上限の20ミリシーベルトを超えてしまいます。これでは何のために巨費をを投じて「除染」をするのかその意義は田中康夫氏の言うように疑問です。

故郷あるいは「ふるさと」とはなんなのでしょう。田中康夫氏が桜島を持ち出されたので桜島から考えたいと思います。大正3年(1914年)に桜島の大正大噴火は始まりました。この噴火により桜島内に住めなくなった住民に対して、当時の政府は国有地を鹿児島県に委ね、そこへの移住を勧めました。移住先となった集落は平成の今でも大隅半島内に散在しています。そこには公費で学校も建設されました。そしてその学校は現在でも存在します。大正大噴火でふるさとである桜島から移住を余儀なくされた住民は故郷を失ったのでしょうか。私は新たな故郷を得たのだと思います。

やはり大災害で移住を余儀なくされた例は他にも存在します。平成23年、台風12号による紀伊半島豪雨は記憶にも新しいところです。同様の被害は同じ地区で明治22年(1889年)に発生しました。土砂ダムにより新湖ができ、その決壊で多くの方が犠牲になったそうです。この災害で移住を余儀なくされた十津川郷の人たちが移住した先が北海道の現在の新十津川町です。現在の奈良県十津川村の人口は4112人(平成22年)、北海道新十津川町の人口は7251人(平成22年)です。新十津川町の皆さんは故郷を失くした方たちでしょうか。人口だけを見ても新たに、元の故郷よりも大きな故郷を作り上げたと言えるのではないでしょうか。ルーツが奈良県十津川村だという意識から、平成23年の災害時にも、新十津川町から奈良県十津川村への支援もなされています。

もし、放射線レベルが長く高い状態が続くのであれば、帰れない住民に、叶わぬ期待を満たすためだけに巨費を投じて期待を裏切るくらいであれば過去の歴史にならって移住を考えるのも一つの案ではあると田中康夫氏と同様に思ってしまいます。

十津川村からの北海道への移住がなされた1889年当時の総理大臣は第2代総理の黒田清隆と第3代総理の山縣有朋です。大正大噴火のあった1914年当時の総理大臣は山本權兵衞と大隈重信です。こうした総理がやり遂げたことと現代の菅さんや野田さんを比較することがそもそも間違っているのかもしれません。

叶わぬ期待に終わらなければよいがと願っています。限られた人生です。叶わぬ期待で大切な時間が失われずに福島県内であれ、他の土地であれ、新たな故郷を得て、有意義に人生が作られるように協力したいものです。また、政府が叶わぬ期待を抱かせて多くの人の人生を奪わぬように願っています。