2013年2月20日水曜日

カテをする幸せと、いつか手放す将来

 全国47都道府県の、それぞれに存在する人口2位の町で唯一PCIができなかった市であった鹿屋市に、誰かがしなければならないだろうと考え、志願して2000年に転勤しました。福岡都市圏で最多のPCI件数の病院から、部長の立場を捨てての転勤ですからもったいないと思う人も少なくありませんでした。転勤してすぐに当時の院長が退職され、経営の悪かった病院の院長になりたい医師もなく、仕方がなく院長を引き受けました。46歳でした。医師も少なく、当直医すら確保できない病院で3日に1度の当直をこなしながら、全国に医師を求めて飛び回りました。そんな状態でPCIがまともにできる筈もなく、若い先生にカテ室を任せて病院の再建に取り組んできました。いつかカテを置く日が来るのだから少し早くなっただけだと自分に言い聞かせていました。カテの勉強の代わりにバランスシートを読む勉強などをしたものです。

 その後、苦労はあったものの病院経営は改善し、医師も確保され、そうした業績が評価されたのか、徳洲会という全国最大規模の病院グループの専務理事に抜擢されました。1年に300本近い航空機に搭乗し、日本中・世界中に出張でした。ますますカテから遠ざかりました。もう2度とカテは触らないかもとも思い、寂しい気持ちもありましたが、一方で、自分の手技で患者さんを傷つけ、訴訟の当事者になることなしに現役を終わったという安堵もありました。

 しかし、人生は分からないものです。事情には触れませんが徳洲会専務理事のポストは在任期間わずか半年で終わりました。一生懸命に組織のために働いてきたわけですから退職後の計画があったわけではありません。大きな病院の院長にどうかなどともお誘いを受けましたが、管理職を続けるのか現場に戻るのかで随分と悩みました。そして出した結論が、鹿屋ハートセンターです。自身で経営的なリスクを負って現場に戻ることにしたのです。

 現場に戻って感じることは、恐怖です。自分の技術や判断で患者さんを傷つけはしないかという恐怖です。一旦、現場を去り安堵した反動でしょうか、怖くて手を抜けないのです。日曜日も正月も毎日欠かさず回診をするのも、患者さんにうるさくちゃんと薬を飲まないとだめだというのも恐怖がさせることだと思っています。

 しかし、今、恐怖以上に幸せを感じています。上司の評価などを気にせずに、身の丈に合った投資で武装し、若い頃に志した仕事を貫徹できる幸せです。自分を評価するものは患者さんしかいません。そしてそこが医師として最も大切な評価と思っています。患者さんに評価されているのに上司は評価してくれないなどというつまらない不満は全くありません。

とはいえ、身体を使うカテの仕事がいつまでもできる筈はありません。折角つかんだ幸せですが、やはり手放す日が来ることは間違いがありません。私が幸せを感じた環境を次世代に伝えたいと思っています。昨年の鹿屋ハートセンターの法人化に伴い、個人の所有であった土地建物はすべて法人の所有にしました。引退したり死亡した時に鹿屋ハートセンターから家族が相続するものは何もありません。給与も個人時代から大きく下げました。カテや循環器診療を志した次の世代へのバトンタッチを次の目標に人生の仕上げをしたいと思っています。

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