2012年12月8日土曜日

救命の現場での医師が送る「気」

 数日前から重症心不全の患者さんの治療にかかりきりです。心筋梗塞の発症が何時か分かりませんがCPK値は低下し、ALTやLDHが若干上昇しているので数日前の発症でしょうか。苦しくなり始めたのは10日前ほど前です。肺動脈圧は60mmHgを超え、酸素飽和度も低いままなので気管内挿管し、PEEPをかけて人工呼吸器管理です。カテで治療できる冠動脈は治療しました。しかし、障害を受けた心筋はカテだけでは回復しません。もっと早くに来てくれれば、患者さんも医者も楽に治療できたのにと思います。でも既に過ぎたことを悔やんでも仕方がありません。今の状況に合わせて最善を尽くすのみです。

 最近、臨床心理学の先生と仲良しです。毎月開かれる勉強会になるべく参加しようと思っています。重症心不全の患者さんを管理する時に尿量のチェックは大切です。利尿が良ければ重要臓器である腎臓への血流量が確保されているということですから救命の可能性は高くなります。助かってくれよという目でバルーンカテーテルから流れ出てくる尿を見ています。尿量が少ないからと利尿剤やドパミンを使って尿量を確保しようとする時に、出てきてくれよと願いながらカテーテルを撫でたりしていると尿が出てくるのに、薬剤のオーダーだけしているとカテーテルを撫でたりするよりも尿の出が悪い気がしますという話をこの臨床心理学の教授に勉強会でお話ししました。するとその先生は「当然でしょ」と言われます。長い間、尿量を見るカテーテルに「気」を送っても尿量が増えるはずもないと思いながら、非科学と思いながら、念ずれば効果が上がるような気がすると思っていたことをバッサリと一言「当然でしょ」です。

 振り返って、救命できるかギリギリの患者さんを診る時にいくら「助かってくれよ」という「気」を送っても救命できない患者さんがいるのは現実ですが、そんなギリギリの状態ながら助かった患者さんに「助かってくれよ」という「情念」や「気」を送っていない場合もないなとも思います。医師が「助かってくれよ」という「気」を送ることは救命に十分ではないことは確かですが、必要なことだと思います。

 非科学であっても構いません。持っている知識と技術を精一杯駆使しながらも「助かってくれよ」という「情念」や「気」を送っても失うものはありません。「助かってくれよ」という「気」を精一杯送りましょう。

1 件のコメント:

  1. どうも、です! 「仲のいい臨床心理学の先生」です。
    先生の会話の再生部分は、ほぼその通りだったと思います。ですから、私のほうが、読み間違えていなければ、その際の意図は十分に伝わっていないようでーー。
    「当然でしょ」は、撫でていれば、よくなるのが「当然でしょ」なんですが…。
    非科学でしょうか? すなわち因果関係で説明できないでしょうか? たとえば、撫でてでもよくなってほしいと願う心があれば、できる限りの処置や、考え付く限りの対応をとっておられるでしょうし、目の前にしたときだけでなく、見えないところでも気を配って(心のどこかで考え続けて)おられるでしょうから、「ふと思いつく」という感じで、先生の心の奥底に潜んでいる「対処法」をも引き出す可能性があります。だからこそ、当然のこと、なんだと思うのです。違うでしょうか。
    もちろん、臨床心理学的にも、説明可能かもしれません。

    祈ったり、願ったり、(触れることが許されないので撫でたりはしませんが)よくやってます。こうするしかない―ほかにやれそうなことはすべてやったーという思いのときですが…


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